2025年7月3日、グリコのタイ現地法人「タイグリコ」がアイスクリーム事業からの撤退を発表しました。この決定は2016年の参入から約9年間続いた現地展開の終了を意味し、多くの関係者に衝撃を与えました。
一方で、これは単なる撤退ではなく、グリコの海外事業戦略における「選択と集中」の象徴的な出来事でもあります。
激化する競争環境と収益性の悪化を受けて、同社は相対的に低収益のアイス事業から撤退し、より成長性の高い菓子・健康飲料分野への経営資源集中を図る戦略的判断を下しました。
本記事では、この撤退の背景から今後の海外展開戦略まで、グリコの戦略転換の全貌を詳しく解説します。
撤退発表の概要と対象商品
グリコのタイ現地法人「タイグリコ」が、2025年7月3日に衝撃的な発表を行いました。2025年末をもって、タイ国内でのアイスクリーム事業から完全撤退することが明らかになったのです。
この決定により、2016年1月の参入から約9年間続いてきた現地アイス事業の歴史に幕が下ろされます。
撤退対象となるのは、日本でもお馴染みの「ジャイアントコーン」「パナップ」「セブンティーンアイス」「パリッテ」といった主力4ブランドの全製品です。
タイグリコは公式発表で「長年にわたりタイの皆様にグリコブランドのアイスクリーム製品をご愛顧いただいたことに心より感謝申し上げます」と謝意を表明しています。
継続される菓子事業とアーモンド効果
一方で、この撤退は事業の全面的な終了を意味するものではありません。グリコの代名詞である「ポッキー」「プリッツ」「ビスコ」などの菓子類、そして健康志向の高まりを受けて人気を集めているアーモンドミルク飲料「アーモンド効果」(タイでは「Koka」ブランド)は、引き続き販売を継続する方針です。
これは明らかに「選択と集中」の経営戦略を示しており、グリコが今後のタイ市場では相対的に収益性の高い分野に経営資源を集中させる意図を表しています。
継続・撤退製品の一覧
事業分野 | 製品名 | 方針 |
---|---|---|
菓子事業 | ポッキー、プリッツ、ビスコ等 | 継続 |
健康飲料 | アーモンド効果(Kokaブランド) | 継続 |
アイスクリーム | ジャイアントコーン、パナップ、セブンティーンアイス、パリッテ | 撤退 |
激しい競争と収益性悪化が撤退を決定づけた主な要因
ウォールズ・ネスレとの競争激化で苦戦
タイのアイスクリーム市場は外資系企業の激戦区です。市場シェアの首位を占めるのは、ユニリーバ系の「ウォールズ」(Wall’s)で、市場の約40%を握っています。次いで「ネスレ」が約7%のシェアを持ち、この2社を中心とした寡占市場が形成されています。
グリコがタイでアイス事業を開始した2016年には、バンコク首都圏で約7%のシェアを獲得していましたが、その後の市場競争は一層厳しさを増しました。特に価格競争が激化し、現地大手ブランドや中国系メーカーとの競争において、日本ブランドの価格優位性を維持することが困難になったとみられています。
タイアイスクリーム市場の競争構造
企業・ブランド | 市場シェア | 特徴 |
---|---|---|
ウォールズ(ユニリーバ) | 約40% | 市場首位、コンビニ・移動販売で展開 |
ネスレ | 約7% | 世界大手、価格競争力重視 |
グリコ | 約7%(2016年) | 中高級路線、ブランド力活用 |
輸入原料コストと冷凍物流費の上昇が収益を圧迫
アイスクリーム事業の収益性悪化の背景には、原料コストの上昇と冷凍物流費の増加があります。グリコのタイアイス事業では、一部の原材料を日本や他国から輸入しており、これらの輸送費や保管費の上昇が収益を圧迫していました。
特に冷凍物流インフラの整備コストは、常温保管が可能な菓子類に比べて大幅に高く、市場の価格競争が激化する中で、この固定費負担が事業の足かせとなっていました。

アイスクリーム事業は冷凍物流(コールドチェーン)システムが必要で、これは商品を製造工場から消費者まで一貫して低温で保管・輸送する仕組みを指します。この維持コストは常温商品の数倍にのぼります。
タイグリコの財務実績の推移
タイグリコの財務実績を見ると、撤退の背景が浮き彫りになります。
タイグリコの年別財務実績
年度 | 総収入(億バーツ) | 純利益(億バーツ) | 備考 |
---|---|---|---|
2020年 | 39.1 | 3.9 | 黒字 |
2021年 | 41.5 | 1.8 | 黒字(前年から大幅減) |
2022年 | 48.9 | △0.01 | 赤字転落 |
2023年 | 34.9 | △1.1 | 赤字拡大 |
2024年 | 35.2 | 0.7 | 黒字回復も低水準 |
グリコのタイ参入時の戦略と当初の期待値
ポッキーブランド力を活用した中高級路線
グリコのタイアイス事業参入は、1970年から続く菓子事業の成功を背景としていました。タイグリコは1970年に設立された現地法人で、「ポッキー」「プリッツ」などの菓子類で現地市場にすでに強固なブランド基盤を築いていました。
グリコは、この菓子事業で培った知名度とブランド力を活かし、中高級製品としてアイスクリーム市場でシェア獲得を狙いました。実際、「パリッテ」35バーツ、「ジャイアントコーン」25バーツ、「パナップ」25バーツ、「セブンティーンアイス」20バーツという価格設定は、現地感覚では比較的高価な設定でした。
初年度3億バーツから2020年20-30億円への成長計画
2016年の参入時、グリコは野心的な成長計画を描いていました。初年度の売上高目標は3億バーツ、2020年には20-30億円規模(約6-9億バーツ)まで拡大する計画でした。
当時のタイアイスクリーム市場は年間約128億バーツ(約386億円)の規模で、年率8.4%の成長を続けており、グリコは2020年には市場シェア10%の獲得を目標に掲げていました。
参入時の目標と実績の比較
項目 | 目標 | 実績 |
---|---|---|
2016年売上高 | 3億バーツ | 約2億バーツ |
2020年売上高 | 20-30億円(6-9億バーツ) | 詳細不明 |
市場シェア目標 | 10%(2020年) | 約7%(2016年) |
実際、参入初年度の2016年の売上高は約2億バーツと計画を下回ったものの、2017年には前年比5-10%の増収を見込み、生産能力を当初の3倍に増強するなど、積極的な事業拡大を図っていました。
タイアイスクリーム市場の現状と競争環境の変化
市場規模487億円でも激しい価格競争
2024年現在、タイのアイスクリーム市場は約121.7億バーツ(約487億円)まで成長しており、2025年には144億バーツ、2027年には155億バーツまで拡大する見通しです。
しかし、この市場成長にも関わらず、競争環境は一層厳しさを増しています。市場は大衆向け(57%)、中間層向け、プレミアムクラスの3つに分かれており、特に価格競争が激しい大衆向けセグメントが市場の過半を占めています。
「ウォールズ」と「ネスレ」は、コンビニでの販売に加え、バイクでの移動販売でも商品を展開し、手に入りやすい価格設定で市場をリードしています。
現地企業と中国系ブランドの台頭
タイのアイスクリーム市場では、外資系企業だけでなく、現地企業や中国系ブランドも台頭しています。特に中国系メーカーは価格・プロモーション競争において攻勢をかけており、グリコのような日系企業にとって厳しい競争環境を作り出しています。
また、タイは現在、アジア最大のアイスクリーム輸出国となっており、2020年から2024年までの5年間で年平均1億600万ドルの輸出額を記録し、年平均成長率11%を達成しています。この輸出競争力の高さは、現地企業の製造技術と価格競争力の向上を示しています。

タイが輸出国として成長していることは、現地企業の製造技術が向上し、コスト競争力が高まっていることを意味します。これが外資系企業にとって脅威となっています。
グリコの海外事業戦略転換と選択と集中の実態
海外事業は好調も「量から質」への転換急務
グリコの2024年12月期連結決算を見ると、海外事業は売上高823億円(前年同期比15.6%増)、営業利益83億円(同101.4%増)と大幅な増収増益を達成しています。海外事業の売上高構成比は24.9%、利益構成比は実に75.8%を占め、グリコの利益を牽引するエンジンとなっています。
しかし、同社は海外事業において「量から質」への転換を急務としています。売上高の伸びは順調ですが、より収益性の高い事業領域への集中が求められており、この方針転換がタイアイス事業撤退の背景にあります。
グリコ海外事業の業績推移
項目 | 2023年12月期 | 2024年12月期 | 増減率 |
---|---|---|---|
売上高 | 712億円 | 823億円 | +15.6% |
営業利益 | 41億円 | 83億円 | +101.4% |
売上高構成比 | 21.4% | 24.9% | +3.5pt |
利益構成比 | 22.3% | 75.8% | +53.5pt |
収益性の高い菓子・健康分野への経営資源集中
グリコは現在、健康価値の提供、お客様起点のバリューチェーン(供給から消費者まで一貫した価値創造の仕組み)の構築、注力領域への研究投資の集中、海外事業の拡大の4つの戦略に取り組んでいます。
特に海外事業では、菓子類と健康・ウェルネス領域に経営資源を集中させる方針を明確にしています。タイでは「ポッキー」「プリッツ」などの菓子類、そして健康志向の高まりを受けた「アーモンド効果」などの健康飲料が成長分野として位置づけられています。
この「選択と集中」戦略により、相対的に収益性の低いアイスクリーム事業から撤退し、より高い成長と収益性が見込める分野に投資を集中させることで、海外事業全体の質的向上を図っています。
タイ撤退が示すグリコの今後の海外展開方針
この撤退から読み取れる戦略的教訓
グリコのタイアイス事業撤退は、単なる市場からの敗退ではなく、戦略的な経営判断の結果です。この決定から読み取れる重要な教訓は、海外展開において「ブランド力だけでは持続的な成功は困難」ということです。
グリコはタイで40年以上にわたって菓子事業を展開し、「ポッキー」「プリッツ」では圧倒的なブランド力を築いていました。しかし、アイスクリーム市場では、このブランド力を活かした中高級路線だけでは、激しい価格競争と現地企業の台頭に対抗することができませんでした。
また、冷凍物流インフラの整備コストや輸入原料費の上昇など、事業特性に応じた収益構造の構築の重要性も浮き彫りになりました。
海外展開における成功要因の変化
従来の成功要因 | 現在求められる要因 |
---|---|
ブランド力 | ブランド力+コスト競争力 |
品質重視 | 品質+価格競争力 |
中高級路線 | 市場セグメント適応 |
技術優位 | 技術+現地適応 |
さらに、グリコの今後の海外展開では、「選択と集中」による収益性重視の方針が一層強化されることが予想されます。
同社は海外事業において、技術的優位性を活かせる分野、既存のブランド力を最大限に活用できる分野、そして持続的な収益成長が見込める分野に経営資源を集中させる方針を明確にしています。
この戦略的転換により、グリコは量的拡大よりも質的向上を重視し、海外事業全体の収益性向上と持続的成長を実現していくものと考えられます。タイアイス事業の撤退は、この方針転換の象徴的な出来事として位置づけられるでしょう。

今回の撤退は失敗ではなく、より収益性の高い事業への戦略的シフトと捉えるべきでしょう。グリコは菓子事業と健康飲料事業で培った競争優位性を活かし、タイ市場での持続的成長を目指しています。
まとめ
グリコのタイアイスクリーム事業撤退は、単なる市場からの敗退ではなく、収益性を重視した戦略的な経営判断です。
激化する価格競争と冷凍物流コストの上昇により、アイス事業の収益性が悪化する中、同社は「選択と集中」の方針の下、より競争優位性を発揮できる菓子・健康飲料分野への経営資源集中を選択しました。
海外事業全体では売上高823億円、営業利益83億円と好調な成長を見せており、利益構成比75.8%を占める重要な収益源となっています。
今回の撤退は、グリコが「量から質」への転換を進める中で、長期的な収益性と持続的成長を実現するための重要な一歩と位置づけられます。
タイでは菓子とアーモンド効果の販売は継続されるため、グリコブランドの現地での存在感は維持されつつ、より収益性の高い事業領域での成長が期待されます。
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